みなさんこんにちは!
眞榮城秀清(まえしろ しゅうせい)です。
ご覧いただきありがとうございます。
この記事は、眞榮城秀清ってこんな人なんだな、というのが
みなさんに伝わると良いな、という思いで書いていきます。
詳しく書いていきますので、かなり長くなるかと思います。
実をいうと政策について色々公言するのは難しい、と思っています。
なぜか、というとそれが「本当に」実現できるかはわからないからです。
村の予算が有限である以上は、どうしても優先順位をつけて実行していくしかありません。
私が今の時点で村内におけるすべての優先順位を把握していて、どう予算執行していけば
実現可能なのかを完全に把握していれば良いのですが、そうではないのが現状です。
ここまで言ってしまって良いのか・・・と思う気持ちも正直あります。
ですが、それを隠して選挙戦に臨むのは、村民の皆さんにとっては
決して良いことではないだろう、という思いからこうして告白させていただきました。
もちろんワンストップ窓口や給食費の無償化など推し進めたい政策はありますので、
それは別記事にて説明させていただきます。
ただ現時点では、できるかわからない耳障りの良いことを並べるよりも、まずは私がどういう人生を
歩んできて、どういう考え方をもって行動しているのかをお伝えすることが大事だと思いました。
そこに共感して、彼になら任せてみても良いかもしれない。
そう思っていただけたら幸いです。
ここまでは少し堅い文体でしたが、ここからは素に近い文体で進めていきます。
私が目指しているのが「気軽に相談できる議員」ですので、普段の私の感じをご覧ください。
まずはプロフィールです。
平成元年2月24日生まれの33歳
座右の銘は「経験待たず、歴史を解く」
那覇で生まれて、幼児期には北谷へ移住
結婚を機に読谷へ移住してきました
学校は、
愛育保育園→浜川幼稚園→浜川小学校
桑江中学校→北谷高等学校と進みました
仕事は、
シェーキーズネーブルカデナ店→アニメイト那覇国際通り店
→パソコン専門店グッドウィル北谷店→北谷町役場
→AppleJapan→ムーンホテルズアンドリゾーツ株式会社、と渡り歩き現在に至ります
那覇で生まれましたが、実際に那覇にいたのは2歳ごろまでなので
その頃の記憶はほとんどありません。
すっごい長いチョコアイスバーが大好きで、自分にとってはごちそうだったことは覚えています。
妹が生まれたころに北谷へと越してきました。
北谷の砂辺に越してきましたが、今とは全然違い、その頃は
まだ野犬もうろついているような状況でした。
砂辺にはスポーツランドがあり、そこで母が働いていたこともあって
ゴーカートでぶんぶん走らせてもらっていました。
上の方で愛育保育園にいたと書きましたが、実は北谷に越してきてから
最初に入ったのは別の保育園でした。
今はない保育園なのですが、そこに居た時の私は
かなりみんなを心配させていたようです
というのも、保育園に着いてからお迎えが来るまで、ずっと
窓際に張り付いているらしく、毎度今生の別れのごとく泣いていたそうです。
父から聞いた話しですが、「しゅうせいがずっと窓から見ているから
あそこの保育園の前通れないよ!」とおじさんが言っていたというのが印象深いです。
保育園の先生も、普通は一週間で慣れて、長くても一か月で馴染みますよ、と言って
いたそうですが、その予想を裏切り一か月経ってもずっと張り付いていたそうです。
そんな中、先生が進めてくれたのがプールでした。
プールを通して引っ込み思案な性格が変わることもある、ということで
プールに通い始めてみると、それが自分にとっては大正解だったらしく
一気に変わっていったそうです。
それが高じてプールがすごく得意に!ということもなく
プールでも進級は絶対にしたくない、という思いがあったらしく
そこでも色々手を焼かせてしまったようです。
ただおかげで極度の引っ込みは鳴りを潜めました。
小学校にあがるとゲームの全盛期でした。
母の、どこかで遊んでいるより家にいてくれた方が安心する、という考えがあったので
いつも家に友達を呼んで、みんなで遊んでいました。
その頃のゲームの進化は本当にすごくて、初代ポケモンから初代スマブラなど
今でも続くシリーズの始まりを体験できたのは良い思い出です。
ちなみに小学校の頃はチャレンジをやっていました。
この時に勉強していたことが今に繋がっているように感じます。
勉強すること、学ぶこと自体が苦手になってしまうと
社会に出てからも苦労することは多いように思います。
きちんと勉強を見てくれた母には本当に感謝です。
休日はよく家族でドライブに出かけました。
やんばるへ行ったり、倉敷ダムで遊んだり、
いとこと一緒にキングタコス食べたり。
子供が生まれると、またこういうことをするのかな、
と最近はよく考えます。
中学に上がってからは部活動を始めました。
所属していたのは硬式テニス部です。
小学校までは驚くほどスポーツとは縁がなかったのですが
やってみるとすごい楽しくて、ゲームをする間も惜しんで
部活に励むほどでした。
めきめきと体力もついていき、小学校の頃は
校内マラソンで下から2番目だったのが
中3最後の校内マラソンでは16位になりました。
こうして実際に結果が出ると、体力のない頃の自分を
覚えているので、なんとも言えない不思議な気持ちでした。
高校に入ってからはアルバイトを始めました。
もともと家庭の所得事情で、高校からは学費を
自分で稼いで通うことにしていました。
この時にアルバイトをさせていただいたのが
シェーキーズネーブルカデナ店でした。
卒業後も在籍して、最終的には4年間お世話になりました。
またこの頃に、自分の人生の中でも大きな事件が起こりました。
片目の失明です。
といっても完全な失明ではなく、左目の真ん中が見えない状態です。
ですが真ん中が見えないので、通常の視力検査はできないですし、
距離感をつかむこともできません。
それが原因でテニスも辞めざるを得なくなりました。
このことは本当にショックで、社会人になってからも
しばらく引きずることになりました。
現在は片目の状態の方が長くなっていますので
特に不便を感じることは少なくなりました。
高校在学中に、進学するか就職するかを考える時期がありました。
普通科の特進クラスだったこともあり、進学を選ぶ学生がほとんど
でしたが、やりたいことを見つけられず、バイトをしながら
公務員試験を受ける道を選択することにしました。
今にして思うと、進学にもお金がかかるため、金銭面を
考えてブレーキをかけていた、という側面もあるかもしれません。
でも、本当にやりたいことがあれば、奨学金を借りてでも
進学して、自分の夢を追いかけたと思います。
そういう意味では、ただ何となく就職を先延ばしにするための
進学をせずにすんだのかもしれません。
アルバイトを続けていたある日、沖縄にアニメイトが
上陸するというニュースが飛び込んできました。
アニメイトというのは漫画やアニメグッズの専門店です。
沖縄ではオープンの時に、国際通りに行列ができたので
そのニュースを覚えている方もいらっしゃるかもしれません。
そこでは初めてお店を最初から作っていく
オープニングスタッフを経験しました。
県外各所からヘルプのスタッフが来ていて
大勢の人と一からお店を作り上げていく経験は
とても刺激的であり、一番楽しい時間でした。
ただその時はまだ免許を所持していなく
バスで通っていたため、家の近くで無理なく
通える職場を探していました。
そんな時に見つかったのが次の職場でした。
それがパソコン専門店のグッドウィル北谷店です。
実はシェーキーズ時代から気になっていたお店でした。
なぜかというと、シェーキーズ時代に自分用のパソコンを
購入して日々活用していたのですが、なかなかパソコンの
知識が身につかず、でもパソコンが使える、ということは
これからの時代に必要だという感覚があったからです。
グッドウィルの募集がでていないかは、ちょこちょこ気にしていたのですが
なかなか募集がでなかったので、募集が出ているのを見つけた時は、
ついにきた!と飛びつきました。
結果からいうと、ここでの仕事の経験は現在でも
とても役に立っています。
もしかしたら役場での経験以上に役立っているかもしれません。
そこでは主に既製品のパソコンの販売、自作パソコンの組み立て
各メーカー製パソコンの修理を行っていました。
それ以外にも周辺機器やサプライ品の案内も行っていました。
これが本当に難しくて、まさにわからないことがわからない、という状態でした。
この状態が2か月続き、もし3か月たっても今と状況が変わらないのであれば、
おそらく自分には向いていないのだろう、ということで、残念ではありますが
退職することを考えていました。
ところがどっこいです。
2か月半を過ぎたあたりからいきなり風向きが変わりました。
お客さんの言うことの半分程度はわかるようになり、自分が何がわからないのかが
わかるようになり、先輩スタッフにも何について確認すれば良いのかわかるようになりました。
今にして思えば点と点が線でつながる、っていうのはこういうことなんだな、と思います。
当時の自分は退職を考えるくらい結構追い込まれていたので、この時は
なんで急にわかるようになったのかわからなかったので、ゲーム的な感覚で
うわぁホントに急に覚醒することがあるんだぁ・・・なんて思っていました。
そこから北谷町役場の公務員試験に合格するまでの2年3か月の間で
自分でパソコンを作って直せるようになり、現在でも続く「調べて対応する」の
基礎を鍛えてもらいました。
このスキルは今でも大いに役立っています。
自分の疑問を「何というワードで調べる」ことで解決策が見つかるのか。
それを知っているのと知らないのとでは大きな隔たりがあります。
平成23年4月。
ここから5年間の公務員生活が始まります。
私が選挙に出る、というきっかけの一つが
この職場にあるのは間違いありません。
ですが、内容も内容なので、この5年間に関しては
当選し、話すべきタイミングがあればお話ししたいと思います。
公務員生活で悩んでいる中、妹から一本の電話をもらいます。
ある大きな会社が沖縄で初めての単独企業説明会を開催する、
もしかしたら興味があるんじゃないか、との電話でした。
それがAppleの日本法人であるAppleJapanの説明会でした。
当時は精神的にもきつくて、あまり積極的に動けない状況でした。
ですが、何かが変わるかもしれないと思い、説明会だけとりあえず参加しよう
という気持ちで会場に向かうことにしました。
仕事そのものは電話でお客様のサポートをする、というよくある電話応対、という
感じでしたが、それが在宅ででき、そして場所にもとらわれないという所に
こんな働き方があるのか、ととても驚きました。
そのまま説明会の会場で一時面接を受け、後から二回ほど
追加の面接を受け採用されることになりました。
ここでは自分の仕事観が大きく変わりました。
人材育成や人事評価の方法、会社としての考え方に感動して
自分がこういったことに携わる機会があれば、ぜひ取り入れていこうと思いました。
それが現在の職場でも最大限に活かされています。
現在の職場でもこれまでの経験をフルに活かし、面接、採用にかかる人事労務や
雇用調整助成金等の申請業務を担っています。
職場の方から相談されることも少しずつ増えてきて、
信頼されていることを実感できるのが嬉しいです。
そんなこれまでの経験から、私のスタンスは是々非々です。
一つ一つ課題と向き合いながら、解決策を模索していきます。
ですので、この人が言っているから賛成、とか
逆にこの人が言っているから反対、というようなやり方は一切しません。
そういうしがらみにとらわれないよう、
後援会などの後ろ盾もありません。
当選した後に、同じ考え方の人が集まって後援会的な組織が
形成されるのは良いと思っています。
ですが、新人としての初めての当選は、前述した考えを貫くため
裸一貫に近い状態で頑張りたいと思っています。
そしてここも重要なのですが、私にとって議員になるのはあくまで手段であって
それ自体が最終的な目標ではありません。
議員になるのはスタート地点に立っただけで、そこからの4年間で
何を成すか、が本当の勝負です。
仮に当選したとしても、皆様には温かくも厳しい目で見届けて欲しいです。
そしてもうひとつの目標が、もっと政治を身近に感じて欲しいということです。
選挙や議会活動が自分達の生活に関わっていることを知ってもらい、
志のある人がチャレンジしやすい環境も整えられたらと思っています。
ですので、資金力がないと・・・とか
地盤などの後ろ盾がないと・・・とか
そういった部分を払拭したいという思いもあり
できるだけお金も使わず、ボランティアなどの人も投入せず
選挙戦を戦う道を選んでいます。
先ほど議員になるのはあくまで手段、と言いました。
それは村がよりよくなるための手段、ということです。
ですので、議員になるのは自分でなくてもいい、とも思っています。
議員を目指す人がいれば、立候補届等の実務面でもサポートしていきたいですし
結果として自分が落ちることになったとしても、それで村が今より
住みやすい村になるのであれば、それが一番だと考えています。
ここまで長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
明日はいよいよ投票日です。
これからの4年間が今より、より良いもので
あることを、一村民として願っています。
今回は新人も多いですね。
果たしてどんな結果になるのか。
今からわくわくしています。